通信販売の法規(特定商取引に関する法)に基づく表示

鶏の大量処分を悲しむ …人と家畜との付き合い方の問い直しを
通信888号記事
明峯哲夫 : 元・自然養鶏家. 

 茨城県の養鶏場で鳥インフルエンザが発生し、昨年に続きまたもや何万羽という鶏が処分された。かつて養鶏に従事した経験のある私にとって、鶏の大量処分はやりきれない。
 私の携わった養鶏では、鶏を自然に近い状態で飼育する。広い土間にたっぷりと稲わらを切り込み、鶏たちに充分な運動と、自然の換気・採光を保障する。緑餌を充分に与える。群れには雄を配し、自然な生理を尊重する。糞は、播餌として与える穀物の粒を探す鶏の脚でよく攪拌され、わらや土と混じり合いやがてサラサラの堆肥となる。彼らは播餌と共に自らの排泄物を口にし、微生物の微弱な感染を受け、そこで得た免疫力で身を守る。
 私は今回の事件で最も危惧するのは、インフルエンザの原因ウイルスの抗体を持つ個体がいたという理由で、近隣の養鶏場の全群の鶏が処分された点である。抗体を持つことは免疫力で発症を抑えている状態、つまり鶏が健やかである証拠ではないのか。そのことに人は(この社会は)なぜ恐れるのだろう。私にはその恐怖は、現在の工業化した大規模養鶏を所与の条件と考えることから生まれていると思われる。
 密閉された空間に、身動きできない程大量の鶏を閉じ込める。これが現在の工業的な鶏飼育法である。しかし一瞬のスキに、その密室に病原体が紛れ込めばどうなるか。自然の状態から隔離され虚弱化している鶏の体に、病原体は瞬く間に侵入し、個体間で際限のない病原体のキャッチボールが始まる。こうして病原体は一気に濃縮される。幸い、今回のウイルスは弱毒型で、鶏の大量死は起きなかった。それでもそれに恐怖するのは、こうした密室内での感染の連鎖により突然変異の頻度が上昇し、強毒型(鶏たちを死に至らしめ、人にも強い感染力を持つ)の出現がありうると考えるからであろう。
 鶏を外界から完全に隔離することは技術的に困難だ。何よりもそうすることで鶏たちの生命力を奪う。むしろ病原体は常に身の回りにいると考え、それに耐えられる鶏の育て方を工夫すべきではないか。鶏の個体(群)を病原から切り離すことばかり考えるのではなく、それらと病原体との間に微妙な生理的・生態的平衡を維持する。そのような状態を演出することにこそ、人は知恵を巡らせるべきだろう。
 鳥インフルエンザが発生する度に、零細な農家養鶏が目の仇にされるのが私には辛い。これらの多くは衛生状態が悪く、ウイルスの発生源になるというのだ。けれども以上述べたように、鳥インフルエンザの大量発生は、養鶏業の大規模化にこそその根本要因がある。小規模な養鶏はむしろ被害者というべきではないのか。
 人への悪性のインフルエンザ発生を恐れるあまり、その発生源としてのニワトリ、アヒル、ブタなどの動物までも目の仇にすることがあってはならない。これらの家畜と人との間に共通のウイルスが存在することは、人間とこれらの動物とが歴史的に長い関わりをもってきたことの証拠でもある。自らの安寧を願うあまり、これらの動物を恐れ、敵視し、彼らの大量処分も辞さない現在の社会のあり方を悲しむのは、私だけではあるまい。人間と家畜たちとの付き合い方が、あらためて問われている。

  * 明峯哲夫さんには、オルター大学構想のお手伝いをいただいています.


戻る