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三谷製糖の三谷昌司さんは、創業1804年、初代四郎兵衛さんより8代目、今なお昔ながらの伝統的な高級白砂糖、和三盆の製法を守っていらっしゃいます。砂糖きびの栽培から和三盆までの一貫生産で、その製法器具は重要有形民俗文化財にも指定(第157号)されています。昔の製造風景は、安藤広重の絵にも残されています。 三谷製糖の和三盆の製法は、伝統的な製造技術として現存している貴重な和砂糖作りでもあります。日本では、インドから中国を経て沖縄に砂糖きびが伝わり、薩摩藩下の沖縄や奄美大島で黒砂糖作りが始まりました。薩摩藩は、砂糖きびはもちろん、製糖技術を国外にもらすことを固く禁じていました。和三盆作りの歴史は、高松五代藩主 頼恭が八代将軍吉宗の糖業奨励政策のもと、平賀源内に製造を命じたことに始まります。その後、藩医池田玄丈、向山周慶へその研究が受継がれました。周慶は、たまたま四国遍路の途中で行き倒れになった、製糖技術に長けていた薩摩の人、良助というものの命を助け、恩義を感じた良助は周慶の事情を知って、死罪を覚悟で薩摩から砂糖きびを弁当箱に隠して持ち出したのが、讃岐の地に砂糖きびが根付いたきっかけとされています。その後、さらに多くの人々の努力で「盆の上で3回研いで、押し船で押す技術」が生まれました。盆の上で3回研ぐから和三盆と呼ぶようになったり、この讃岐和三盆の完成まで、実に45年かかったということです。
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砂糖きびの栽培 三谷製糖では、自園で砂糖きびを栽培しています。原料から製品までの一貫生産です。 三谷製糖のある馬宿川周辺は、和泉砂岩という土質で米作りには適さず、昔、讃岐和三盆の開発される前、色んな作物を試して、苦労した末、砂糖きび栽培を始めたという歴史があります。今でも、周辺で約20軒の農家が栽培に協力していただいています。 ここでの砂糖きび栽培は、奄美や他の砂糖きび栽培のように切り株を残して、欠株だけを植えていくというやり方ではなく、毎年株を引き上げては翌年種きびを植えるという大変珍しい方法をとっています。現在の砂糖きびの種きびは代々伝わっているもので、長い年月を経て香川県の風土に十分に馴れています。三谷製糖自園では、EMボカシ、油カス、米ぬかなどの肥料を使い、砂糖きびの害虫しんくい虫は折って取るなどして農薬も使いません。2〜3年砂糖きびを栽培しては1年休むというやり方をしています。他の生産者のやり方もほぼこれに準じています。ただし、オルターの基準でいう栽培時無農薬です。休作中の他品目の栽培などの農薬までは管理されておらず、まだ有機JAS認証ではありません。
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@収獲した砂糖きびを電動ローラーで搾る。 A原液を「中ふかし釜」に入れて薪で焚き、浮いてくるアクをけんどという道具で丁寧にすくう。 Bアクの出が少なくなると「吹かし釜」に移し、焼成かき殻カルシウムを入れます。 C一ヶ所に吹き出し口を設けた「吹かし釜」に蓋をし、勢いよく吹くと大きな泡とともに白っぽいアクが出てくる。アクの噴き方を見て、火加減をするため、炊方と ぴったり呼吸が合わないとうまくいきません。 Dさらに煮詰めて、最初の搾り汁の一割程度になる。煮詰まり具合は、水に垂らし、その固まり具合で判断します。 Eこうしてできた「白下糖」は素焼きのかめに入れて冷やしたあと、小さく砕き、大きな木枠の「磨き飯盆」と呼ぶ作業台に移し、3〜4人がかりで混ぜたり、揉んだりして研ぎます。 F木綿と麻布に包み、てこ仕掛の「押し船」と呼ばれる大きな木製の圧搾機にかけると、茶褐色の糖蜜が流れ出ます。
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G再び研ぎの作業が繰り返されます。 研ぎ作業は荒かけ、つぶり、どぶとぎ、 中とぎ、あげとぎと進むにつれ、白さ が増してきます。この研ぐという作 業は、砂糖の結晶をすりつぶす作業 です。でき上がった和三盆が大変 ふわっとしてまろやかになる理由が ここにあります。研ぎ作業に手水 (加水)を使いますが、この水には、引 田町内や琴南町内の、節分までに汲 み置きした寒の湧き水をこだわって 使っています。寒の水で作れば、おい しくて日持ちのする和三盆ができる と茶人などに好評なのです。 Hこれを乾燥させ、粉にすると和三盆ができる。 I和三盆を型に入れて干菓子にもする。
食べ方 ・羽根さぬき(丸型)はお茶うけに。 ・粉砂糖は大変上品な味の砂糖ですので、 手作り菓子などにご利用下さい。
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そもそも和三盆は大変珍しいもので、市場では必ずしも一般的ではありません。市販の砂糖については、別項目をご参照ください。
文責:西川栄郎 2002年2月2週オルターカタログ記事
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